お寺の紹介

聿来山長通寺の起こりは、「平家伝説」と「安徳天皇陵墓説」と大きく結びついています。その為、歴史上の事など多くの事がはっきりとしていない部分も多くあります。 寿永年間(1182~1184)頃、現在は岡益廃寺跡として地名に残っている場所に天台宗光良院というお寺があり、これが長通寺の始まりだと言われています。建久5年(1194)、比叡山の般若院主であった長通大和尚に指導者となっていただき、名目上の開基に安徳天皇をいただいて、長通寺と呼ぶようになりました。
しかし、天正年間(1573~1592)頃に焼け落ちてしまったとされています。その後、空白の時代があり、この間、お寺がどのようにあったのか、後に岡益の村のさらに奥にある寺山という土地に建立されていますがその時代の記録はありません。
その後、元和年間(1615~1624)頃、現在の鳥取市湯所町にございます、天徳寺五世由山宗養大和尚がおいでになり、天台宗から曹洞宗の「萬松山 長通寺」と改められました。天保年間(1830~1843)頃には三世金嶺大鱗大和尚の熱心な布教、尽力により境内地を拡大していきました。 明治28年(1895)には10世得明大和尚の尽力により、安徳天皇のお墓ではないかとされていた岡益石堂が宮内庁より安徳天皇御陵参考地として正式に指定をいただきました。しかし、当時の長通寺は山奥にあり、とても不便な立地であったため、「これでは集まり、寄ってきてもらうお寺としては困る」ということで檀信徒皆様の賛同をいただき、明治33年9月に本堂新築、庫裡移転の工事が始まりました(翌年4月に完了)。これを機に山号を「萬松山」から、人々が仏法を求めて手をつなぎやってくるお寺という意味を込めた「聿来山」と改められました。 現在では、八百谷冷泉襖絵、志賀直哉文学碑、作家岡田美子の詩、長通寺西国三十三霊場など多くの歴史文化、そして御檀家様と共に今の時代を歩んでいます。

住職ご挨拶

人生は、一期一会。
  出会いを大切にしなさい

人はどこかで必ず人とつながり、そのご縁の中に生きています。これは先代の住職が残してくれた言葉で、今でも私が大切にしている教えです。 長通寺の住職となり、「お寺とは何をするところだろう」と考えてきました。葬式や法事を行う場所という印象が強いかもしれません。もちろんそれも大切な務めであり、また、人のご縁を深め確かめるのもお寺の大切な役割だと感じています。 ご法要の方々だけでなく、お寺を見にきてくださる方、地域の方、たくさんの人たちがそれぞれの目的で足を運んでくださいます。そこで人と人が触れ合い、自然なつながりが生まれ、日々の暮らしが豊かになる。それが、私が目指したい長通寺の在り方です。 幅広い世代に親しんでもらえるよう、さまざまな体験会を通じて多くの方とのご縁がつながっていくお寺。そして、ご供養というお寺の一番大切な役割をこれからも果たしていけるよう、みなさまとの出会いやお話を通じて、時代やそれぞれの形に合ったご供養を見つけていければと考えています。 一期一会。私自身もみなさまとの出会いを楽しみにしています。山奥にあるお寺ですが、いつもみなさまの心のどこかにいられますように。

長通寺 住職 磯江紹元 合掌

長通寺 住職 
磯江紹元 合掌