読みもの
2022.02.08
「祖父の思い出」 大本山永平寺 鹿児島出張所 紹隆寺監寺 山縣洋典老師 御寄稿
近年、自分が死んだら葬式をしなくて良いとか、墓は要らないという方が増えているような事を聞きます。本当にそれで良いのでしょうか。これに関し、私の母方の祖父の話を聞いてほしいと思います。
祖父は第二次世界大戦中、広島の呉の海軍基地で戦地に赴く若い方々に船の操縦を教える教官をしていました。しかし終戦末期になり戦局が絶望的な状況になっても出撃し、自分より若い方々の戦死の報告を聞くのに耐えられなくなり、志願して500人乗りの護衛艦の船長として出撃したのです。祖父の船はその後、南の海にて、敵の攻撃を受け沈没の危機となり、497名の部下を逃しました。実はこの時、泳いで逃げる兵士にも、ボートで逃げる兵士にも追撃はなく、大局が決していたことは、誰の目にも明らかだったそうです。しかし祖父は責任者として、副官2名と共に体を船に括り付け一緒に沈みました。
この一連の出来事は、終戦後、その時目撃した船員の方が祖母に伝えてくださり、更に祖母が、祖父の墓前で私にしてくれた話です。その時祖母は続けて、戦中自分の連れ合いが戦死したという報告の紙を受け取っても全く悲しくなかった、何故ならばそれまでも傍にいなかったから聞いても真実味がなかった。だから、葬式も行わなかった、何故ならきっと戦争が終われば、どこからかひょっこり帰還してくるに違いないと思っていたからと言いました。しかし戦争後その部下の方から、この最後の状況を如実に聞き、唯一形見として託された祖父のメガネを手にした時、涙があふれ出して止まらなくなった。そして、そのメガネを骨壷に入れて、葬儀をした時、本当にもう帰って来ないことを正面から受け止めることを通じ、これから前向きに生きていく決意ができたと言いました。
葬儀に伴う一連の仏持は、単に亡くなられた方に対する追善の気持ちを示す儀式ではありません。手を合わす者個々がしっかりと現実を受け入れて、亡くなった方の生前の生き方を自らの人生に照らし合わせ、共にこれからも一緒に歩んでいくお誓いをする大切な時間なのです。
言わば、ご縁の結び直しを通じて、自分の人生をより有意義にできる貴重な体験に他なりません。また、手を合わされる側に自らがなった時、自分と生前ご縁を賜った方々に対して恥じない生き方をする決意の場でもあります。こう考えると、葬儀や供養などの仏持や、こうした気持ちを思い出させてくれる仏壇やお墓などは、決して無駄ではなく大切な事だとご理解していただけると思います。また仏道を行する方々に、この事を常に心に留めおいて精進することをお願いいたします。